🦐 無痛分娩は、命を守る医療です。
今日から、また臨床に戻ります。
2年ぶりです。戻って最初に書くことを、ずっと考えていました。
無痛分娩の話にします。ぼくがこの仕事を続けてきた理由が、いちばんはっきり出るテーマだからです。
無痛分娩、という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。
出産のときの陣痛を、背中からの麻酔でやわらげるお産の方法です。
日本では多くの場合、健康保険がきかず、施設によっては10万〜20万円ほどの追加費用がかかります。
だからでしょうか。
無痛分娩はしばしば、こんなふうに語られます。
「お金に余裕がある人向けの、贅沢なオプションでしょう?」
さらには、こんな言葉が妊婦さんに投げつけられることさえあります。
「お腹を痛めてこそ母親」
「痛みなく産むと、赤ちゃんへの愛情が湧かない」
でも、産科麻酔を専門にして15年以上、日本とカナダで無痛分娩2,000件以上、帝王切開1,000件以上に関わってきた産科麻酔科医として、これだけは言い切れます。
無痛分娩は、贅沢品ではありません。
痛みを取るだけのものでもありません。
お母さんの命を守り、産後の家族を守る医療です。
今日は、なぜそう言い切れるのか。データと、ぼく自身の経験からお話しします。
無痛分娩は、命を守る
そう聞くと、意外に思うかもしれません。データの話をします。
スコットランドで、2007年から2019年までの567,216件の分娩を調べた研究があります。
結果は驚くべきものでした。
無痛分娩を受けた妊婦さんでは、命に関わるような重篤な合併症が35%少ないという結果だったのです。
しかも、持病などがあって無痛分娩が医学的にすすめられる妊婦さんでは50%、37週未満の早産では47%と、さらに大きな低下でした。
つまり、リスクの高いお産ほど、無痛分娩が命綱として働いていました。
ニューヨーク州の575,524件の経腟分娩を調べた別の研究でも、無痛分娩を受けた妊婦さんは重篤な合併症のリスクが14%低いという結果が出ています。
『痛みを取るだけじゃなくて、合併症まで減らしてくれるのか……!』
合併症が減少するということは——これはもう、めっちゃ重要な医療じゃないですか。
じゃあ、赤ちゃんへの影響は?と心配になりますよね。
こちらも、同じスコットランドの495,695件の妊娠を調べた研究があります。
無痛分娩によって、新生児の神経学的な合併症や、その後の脳性まひなどのリスクが上がるという結果は示されませんでした。
むしろ早産のケースでは、生後5分の時点で赤ちゃんの元気さの点数(アプガースコア)が極端に低くなるリスクが、無痛分娩のグループで約4割低いという結果まで出ています。
無痛分娩は、痛みを取るだけでなく、お母さんの予後を改善する。そして赤ちゃんへの安全性も、大規模なデータで確かめられつつある医療なのです。
そして、もうひとつあります。
痛みは、産後の育児を阻害する最大級のストレス因子です。
痛みを我慢することが、母乳や育児に良い影響を与えることはありません。
『むしろ積極的に痛みを取り除くことが、母子の愛着形成や産後うつの予防につながるのではないか』
ぼくはそう考えて、この分野の研究を続けてきました。
忘れられない場面があります。
四国から実習に来た医学生が、うちの病院で帝王切開のあとの患者さんを見て、こう言ったのです。
「お腹切ってるのに、当日でこんなに動けるんですね。感動しました!」
断っておくと、これは出産のあとの痛みの話です。陣痛の痛みと、産後の痛みは別物です。
でも、痛みを取るとその先どうなるか、という点ではつながっています。
ぼくたちの施設では、術後の痛み管理を徹底的に改善してきました。
かつては手術のあと、安静にしていても中等度以上の痛みを抱える人が7割いました。それが今では、肌感覚で10〜15%程度です。100人中90人くらいは、じっとしていれば痛くない状態でお産のあとを過ごせています。
ぼくたちにとっての当たり前は、外から見れば感動されるレベルの医療だったのです。
痛みを取ることは、贅沢でもわがままでもありません。
回復を早め、赤ちゃんを抱く力を残し、育児のスタートラインを整える——れっきとした医療なのです。
「本当に痛くないの?」に、正直に答えます
よく聞かれます。
正直に答えると、無痛分娩は、痛みをゼロにする医療ではありません。
ぼくの経験では、10人中1人はまったく痛みを感じません。
8人は多少の痛みを感じながらも、満足してお産を終えます。
そして1人は、麻酔の調整やかけ直しが必要になります。
全員が無痛になるわけではないのです。
そもそもぼくたちは、痛みゼロを目指していません。
麻酔の薬を増やしすぎると、お産の進行が悪くなることがあるからです。
目標は、10段階で3以下です。
……とはいえ、3の痛みと言われても、全然想像できないですよね。
一つの目安を挙げると、3というのは、会話を中断してしまうくらいの痛みです。
陣痛の波が来るたびに話が途切れて、思わず顔をしかめてしまう——そういうことが起こらないように、麻酔を調整していくのです。
痛みをゼロにするのではなく、会話ができて、笑顔でいられて、いきむ力は残っている——そこを狙い続けます。
だから無痛分娩という呼び方自体、ぼくはあまり好きではありません。
無痛という言葉は過度な期待を生みます。実態に近いのは産痛緩和です。
ちなみに最近、日本麻酔科学会は分娩時鎮痛という呼び方を正式に採用しています。
そして、無痛分娩は楽なお産でもありません。
麻酔が効いていても、いきむ努力は必要ですし、助産師さんのスキルに支えられたチーム医療です。
無痛分娩は、裸足で登っていた山に、靴を履かせるようなものです。
山を登るのは、あくまで妊婦さん本人です。
ぼくたち産科麻酔科医の仕事は、その人の足に合う靴を見つけることです。
ここからは、ぼくの経験の話です
先に結論を言うと——無痛分娩を選ぶのも、選ばないのも、決めるのは妊婦さん本人です。
実はぼく自身、46年前に無痛分娩で生まれました。
当時としては、かなり早い選択です。母は自分で調べて、自分で決めたそうです。
「痛みなく産むと、赤ちゃんへの愛情が湧かない」
そう言う人がいます。ぼくは母の愛情を疑ったことなど一度もありません。
ぼくという生きた反例が、ここにいます。
一方で、ぼくの妻は無痛分娩を選びませんでした。
理由は「背中に針を刺されるほうがよっぽど怖い」からだそうです。
産科麻酔科医の夫として、ぼくは何も言いませんでした。
選ぶのは妊婦さん本人です。家族でも、医療者でもありません。
無痛分娩で生まれたぼくと、無痛分娩を選ばなかった妻——専門家の家庭ですら、選択はこれだけ分かれるのです。
だからぼくは「全員無痛分娩にすべきだ」なんて一度も言ったことがありません。
やりたい人が、やりたいときに、安全に選べる——その状態をつくりたいだけです。
カナダで見たこと、日本に足りないこと
日本に足りないのは、麻酔の技術ではありません。チームの教育と、制度です。
ぼくはカナダのトロント大学にある、マウントサイナイ病院というところで働いていました。
年間7,000件のお産を扱う大きな病院で、分娩室専属の麻酔科スタッフがいて、無痛分娩は当たり前の選択肢として提供されていました。
そこで痛感したのは、日本とカナダで麻酔の技術に大きな差はない、ということです。
決定的に違ったのは、妊婦さんの一番そばにいる看護師さん・助産師さんの理解度でした。
英語がまだ不十分だったぼくを、現地の看護師さんたちは完璧に支えてくれました。患者さんへの説明も、血圧のチェックも、麻酔が効きすぎていないかの判断も。
日本に最も足りないのはここです。
無痛分娩のとき、妊婦さんの一番そばにいる助産師さんが、無痛分娩を正しく学ぶ機会を持てていないのです。
技術の輸入より先に、チームの教育です。この分野に、近道はありません。
そしてカナダでは、もうひとつ大事なことを学びました。
お産のあり方を決めているのは、医学だけではない、ということです。
たとえばぼくのいた病院では、誘発分娩(陣痛を人工的に起こすお産)の開始は、お昼の2時〜3時でした。
なぜか。
深夜0時を回ってから出産になると、病院に入る報酬に加算がつくからです。
誤解のないように言っておくと、カナダでは入院費用の自己負担はゼロです。
医療は公費でまかなわれていて、病院はその決められた枠組みの中でやりくりしています。あくどい話ではなく、制度がそうなっているのです。
日本では、できる限り日中にお産を終えるようにします。
カナダでは、あえて夜中に生まれるようにします。
真逆です。
現地の医師に聞くと「限られた公費の中で合法的に部門を運営して、何が悪いのか」と言います。
『うーん、なんだかもやもやするなぁ……』
正直、いつもそう感じていました。
でも、この経験は大事なことを教えてくれました。
お産の形は、報酬や制度というシステムがつくっているのです。
日本で無痛分娩が広まらなかったのも、技術の問題ではなく、歴史と制度の問題でした。
そして、広まらなかった理由が制度にあるのなら——これから広まっていく理由も、きっと制度です。
25年かけて、やっと選べるようになってきました
ぼくがこの25年やってきたのは、いつでも選べる状態を保ち続けることでした。
ぼくの勤めている施設では、24時間365日、いつでも無痛分娩に対応できる体制を、2000年から25年以上続けてきました。
その体制をつくる過程では、ぼく自身が病院に寝泊まりしていた時期もあります。
当直の日だけではありません。オンコールといって、呼ばれたら駆けつける待機の日もあります。
ぼくの家は、病院から車で1時間ほどの距離にあります。
陣痛はいつ来るか分かりませんから、確実に間に合わせようと思ったら、病院に泊まり込む以外の選択肢が、なかなかなかったのです。
正直、しんどかったです……。
それでも続けてきたのは、「やりたかったけれど、できなかった」という妊婦さんをなくしたかったからです。
外来で、無痛分娩にするかどうか迷っている妊婦さんには、いつもこう伝えています。
「迷ったままで、まったく構いません。出産の途中で無理だと感じたら、いつでも呼んでください」
決めきれないまま、分娩室に入っていいのです。
途中で気が変わってもいいのです。
24時間365日の体制は、そのためにあります。
選択肢というのは、いつでも使える状態で置いてあって、初めて選択肢と呼べるのです。
そして日本全体も、確実に動いています。
日本の無痛分娩の割合は、2018年報告では5.2%でした。
それが2025年報告では16.2%です。7年間で3.1倍。
実施した産婦さんの数でいえば、49,241人から111,712人になりました。日本産婦人科医会が全会員施設から集めている施設情報を、医会の医療安全部会が解析したデータです。
一部の人の特別な選択肢から、普通の妊婦さんが検討する選択肢へ。日本のお産は、いま節目を越えつつあります。
象徴的だったのが高知県です。
高知は、全国で最後まで無痛分娩の実施施設がゼロだった県でした。
ぼくは2025年5月、「周産期改革をするぜよ!産科麻酔維新2035」というタイトルで高知に講演に行きました。
『高知に火をつけに行くぞ』
そんなつもりでした。
その2か月後のことです。
高知大学で、全国で最後、県内では初となる無痛分娩が実施され、2例とも無事に出産されたというニュースが届きました。
熱意ある医師が一人で立ち上げて、その人が辞めた瞬間に消えてしまった無痛分娩を、ぼくはいくつも見てきました。
だからこそ、病院単独ではなく、大学と行政を含めて県全体で立ち上げた高知のやり方は、本来こうあるべきだという形でした。
これで、すべての都道府県で無痛分娩が選べる状態になったのです。
ただ、手放しでは喜べません。
広まるスピードに、安全の準備が追いつかない施設が出てくるからです。
無痛分娩の安全は、書類を整えれば手に入るものではありません。
命に関わる事態にどう対処するかを、経験のある人のそばで学び、自分の施設で考え抜いてつくり上げる過程からしか生まれません。
普及と安全は、車の両輪です。
どちらか片方だけ回しても、前には進みません。
それでも、言い続けます
きれいごとだけではありません。
無痛分娩について発信すると、燃えます。
ぼく自身、共著に入った論文がSNSで切り抜かれて、意図とまったく違う形で炎上したことがあります。
同じ麻酔科医から「上にいる人は現場を分かっていない」と書かれたときは、正直、ものすごく心を削られました。
制度を変えようとする途中で、心が折れてしまった仲間も何人も見てきました。
それでもぼくは発信をやめません。
『ぼくにはぼくの正義があり、相手には相手の正義がある』
その前提に立ったうえで、誰かがやらなければ、社会は良くならないからです。
ぼくの代で実現できなくても、次の代、その次の代で社会実装できればいい。そう思っています。
最後に、誤解のないように
無痛分娩は、やりたい人がやればいいものです。
自然分娩を選ぶことも、等しく尊い選択です。お産は文化ですから。
ぼくは、助産師さんが陣痛の妊婦さんにかける、あの言葉が好きです。
「痛みが強くなるほど、赤ちゃんに会える瞬間が近づいていますよ」
痛みに意味を見出す文化を、否定するつもりはありません。
ぼく自身、この声かけを産科麻酔の実践に取り入れているくらいです。
問題は文化そのものではなく、文化が、選べない理由にすり替わってしまうことです。
ぼくがなくしたいのは、たった2つです。
「やりたかったけれど、できなかった」
「やりたくなかったけれど、やることになった」
この2つだけです。
無痛分娩は贅沢品ではなく、命と家族を守る医療のひとつです。
正しい情報をもとに、妊婦さん本人が選べる社会をつくっていきます。
痛みを我慢することに、美徳はありません。
『我慢できる文化に、甘えない』
それが、産科麻酔科医としてのぼくの旗です。
今日から現場に戻って、この旗のもとで仕事をします。
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ぼくの発信は、Spotify「#ワンますラジオ」(週3回・10分)と、𝕏、facebook、このニュースレター「ワンますニュース」で届けています。どれもプロフィールのリンクからどうぞ。
参考文献
[1] Kearns RJ, Kyzayeva A, Halliday LOE, Lawlor DA, Shaw M, Nelson SM. Epidural analgesia during labour and severe maternal morbidity: population based study. BMJ. 2024;385:e077190.
[2] Guglielminotti J, Landau R, Daw J, Friedman AM, Chihuri S, Li G. Use of Labor Neuraxial Analgesia for Vaginal Delivery and Severe Maternal Morbidity. JAMA Network Open. 2022;5(2):e220137.
[3] Kearns RJ, Kyzayeva A, Singh S, Lawlor DA, Shaw M, Nelson S. Epidural analgesia in labour and neonatal and childhood outcomes: national population based cohort study. BMJ. 2026;394:e343320.
[4] 日本産婦人科医会 医療安全部会. 硬膜外鎮痛分娩の現状〜日本産婦人科医会施設情報からの解析〜. 2025年11月.
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